Review 2019.2.15
環境破壊時代の藝術―大槌秀樹のポスト・ヒューマニズム的想像力について
井上幸治
震災後の美術の状況を「環境破壊時代の藝術」と定義し、そこから「環境と美術」の問題を大槌秀樹さんの作品から考えてみたいと思います。大槌さんは山形にある東北芸術工科大学で漆工芸を学んでいましたが、大学院で実験芸術を選択してからは現代美術の世界に活動の場を移して、大学院修了後も山形を拠点に作家活動を続けている方です。大学院の修了が2009年ですから、10年近く山形を拠点に現代美術の活動をなされています。
「震災後」の状況を問う時に、被災地となった沿岸部から遠く離れた山形の内陸部で制作活動を続けている大槌さんの作品に注目する理由は、震災後の美術と呼ばれるものの多くが自然の非人間性に対抗するかのように、人間性を構築していく方向性に向かっている状況の中で、大槌さんは人間中心的な方法ではなく、環境中心的な方法を選択し制作をしている数少ない作家の一人だからです。
どうして環境中心的な思考法が選択され難いかというと、それは厄災あるいは災害と呼ばれるものが人間の領域に不意に侵入、侵食して来ることと関係しています。この不意打ちという災害に特有の時間感覚の受動性と(災害は忘れたころにやってくる)、災害がもたらす「恐怖」や「悲しみ」といったコントロールし難い被傷感情の受動性は、共同体の中で増幅されると集団性を希求する「情動」になりやすいので、「復興」という疑いようのない名分が与えられると、自然を対象化する声は(たとえば「自然とはなにか」という問いは)、対象化しない(排除する)という集団の声によってかき消されていきます。
なぜなら自然を対象化するには、自然を他者と認知する必要性がありますが、自然観の他者論的転回が受け入れられていない共同体では、そうした声は個人の主観的な声でしかないので、なによりも人間の権利が優先されるからです。
しかし自然(環境)を対象化しないという選択には、私たちから「なぜこの出来事はおきたのか」と問う機会を奪ってしまっていること。そして外部から侵入してくるもの(恐怖)への防御壁を一新するという名目で、自然環境に対する攻撃性が正当化されるので、そこで行使される暴力が暴力として認識され難いという問題があります。
もちろん生活の再建という意味では「復興」は必要なことです。しかし「排除」という暴力が暴力として認識されることなく行使されるので、強迫観念的に行われる失地回復事業に歯止めが効かなくなり。気がつけば自然が人間に侵食してくる以上の暴力で、人間が自然を侵食している状況が生まれています。自然の圧倒的な暴力の前で言葉を失っていたはずなのに、人間の方がそれ以上の暴力を行使する力(技術)を保有し、それを行なっているという状況が何を意味するのかというと。もはや人間を限定しているのは自然環境ではなく、人間自身の方だということです。
たとえばハンナ・アーレントは『暴力について』の中で、「目的を正当化し、そこに到達するのに必要な手段によって目的がおしつぶされてしまう危険」を指摘していますが(註1)、生活の再建という正当的な目的があったとしても、それを達成する為の手段(技術)を私たちが制御しきれない以上。どんなに自然の前で私たちが無力を感じたとしても、それ以上の力を私たちが保有していること、たとえば「核」といいった破壊への欲望を宿した技術を保有していることを忘れてはいけないのです。なぜならこうしたことを忘れて、暗黒の自然を開拓して光を当てることを善とする時代錯誤な精神を持ってしまうと、取り返しのつかない環境破壊が行われてしまうからです。
こうした状況を回避するには、まずは自然を他者として認識・認知する必要性があります。なぜならここで行使される暴力は、自然を他者として認識しないことで行使される、人間中心主義的な暴力であるからです。ですから、その為には人が自然と接触しかかわることで、「自然という他者」の存在に気づかなければなりません。必要なのは自然を「声も主体もない」存在と認識するのではなく、「声と主体」を奪われた他者と認識することです。なぜなら「自然という他者」の存在が、人間の世界を相対化する概念となるからです(註2)。そして、それを可能とするだけの想像力が美術にはあるはずです。
しかしながら美術の世界においても多くの場合、自然は排除されるか、若くはピクチャレスクな対象、つまり「絵」のような「美しい風景」として眺められるものとしてしか認識されていません。なぜ自然が風景として見られるのかというと、自然を「美しいもの」として見るために必要な「距離」というものがあれば(註3)、「自分から離れたもの、あちら側にあるもの」として見ることが可能となるからです(註4)。
ここで確認しなければならないのは、「自然の眺めや眺望」を描いたものが「風景画」となるのではなく、自然の方を美的規範に当てはめて、絵画の伝統に従わせていくことが「風景画」と呼ばれるものだということです(註5)。つまり風景とは自然ではなく、絵画に由来するものなのです。では、なぜ自然が客体化され「あちら側にあるもの」として見られる必要性があるのかというと。それは厄災によって露わになった自然の「野生性」、「おそろしさ」に人は耐えられないからです。それは私たちが見慣れていた自然、人の手が加えられた「二次的自然」とはあまりにも違うものでありました(註6)。
たとえば震災後の被災地で眼にした草叢の風景というものを、多くの人が覚えていると思いますが、このあらゆるものを覆い隠していく草の魔術的な生命力に感じた驚異というのは、自然界の溢れる「生命」に対する驚異だけではありませんでした。それは「死」を内包していることへの恐怖、脅威でもありました。なぜなら草の持つ被覆性と遮断性には、「草葉の影」という言葉が示唆するように、「死」の影が内包されているからです(註7)。
そこにあったはずの生活の痕跡をすべて包み隠し、すべてを無に帰していく草叢の影は、私たちに近代社会が視覚から排除してきたはずの、「死」に対する原始的な恐怖と不安を思い起こさせます。この死も自然の中では再生の過程の一つの要素でしかないという非情さ故に、それは物理的に排除されるか、あるいは操作可能な客体として遠ざけられることになるのかも知れません。しかし私たちに必要なのは、自然との和解など考えられないほどの断然を目撃してしまった後であるからこそ、自然に対してどのようなアプローチが可能かということを問うことであるはずです。
こうした問いにユニークな選択をしているのが大槌さんといえます。彼の選択は自然に対しの恐怖や不安を物理的に排除したり、あるいは自分と自然との間に境界線を引いて客体化したりするのではなく、その中に身を投じるという方法です。つまり人間の側が侵入者となることで、自然と接触し共生する方法が模索されるのです。
この時に注目したいのは、自然にコミットメントするという作家の選択が、草に覆われた「廃村」や「消滅集落」という自然との境界的な場(エッジ)でおこなわれていることです。そこは被災地で眼にした草叢の風景と同じく、生い茂る草が人々の生活の痕跡を全て飲み込んでいく場です。草に飲み込まれた家屋も、そこにいく道も草に覆われ、草がくれの道となっています。そこは作家が指摘するように福島の「帰宅困難地域」を思い起こさせる場所でもあります。果たして自然に帰していくその光景が、過去の風景なのか、それとも未来の風景なのかは分かりませんが、はっきりとしているのは強迫観念的に失地回復が目論まれる被災地と違い、そこは完全に見捨てられた地となっていることです。
特に経済的な観点から見捨てられた地であって、被災地の多くが郊外という都市の補完物となることで、経済的に依存して生きのびていく道筋が探られているのに対して、そこは見事なほど「グローバル化と資本主義から取り残された」場所となっています。そうした意味において、そこには社会とコミットメントするという選択肢はありません。あるのは自然とのコミットメントとするという選択肢だけです。しかし大事なのは紛れもなくそこが人間と自然が出会うコンタクトゾーンとなっていることです。
では、こうした場所でどの様な作品が制作されているのでしょうか。具体的に作品を見ていきたいと思います。
大槌さんの作品を理解するうえで最も重要なことは、人間の肉体的弱さが前提とされていることです。たとえば《名もなき神々》(2018年)や(註8)、《撮影と風景》(2017年)といった映像作品では(註9)、裸(腰巻一丁)という無防備な状態で自然環境の中に侵入していき、あえて身体が虫の攻撃や獣の気配といった危険に囲まれる状況が作られています。こうした行為から明らかになるのは、人間の肉体の有限性です。人間の肉体の有限さとはハロルド・フロムが『超越から退化へ』の中で指摘したように、テクノロジーが発達する以前の人間には自然に対抗する力がなかったので、人々は「精神と神々」に眼を向けるしかなかったという状態を意味します(註10)。つまり、なぜ作家が神人同型論的に古代ギリシャの神々に扮するのかというと、神々という「人間以外の存在」に自己を投影しなければならいほど、人間は自然と交渉することができない弱い存在だということが再現されているからといえます。ここで気を付けなければならないのは、作家がここで試みている人間以外の存在に自己を投影する行為とは、世界を擬人化し人間中心主義的な表象を目論む行為ではなく、むしろ人間以外の存在に自己を投影することで、人間の弱さを際立たせて、そこから人間と世界を相対化する試みとなっていることです(註11)。
たとえば《撮影と風景》では、画家の後藤拓郎とのコミカルなやりとりが展開されていますが、ここで確認すべきことは自然と対峙する肉体の自明的なほどの無力さが笑いを誘う要因となっていることです。ここでは自然との接触が、無数の虫に攻撃されるという不快さ、あるいは脅威として経験されることで、自然に対する人間の特権性や優越性が見事に否定されています。
この時に注意したいのは、作品内で私たちの「笑い」を誘う虫の攻撃という触覚的イメージとは、視覚優先なピクチャレスなものの見方に対する見直しの要求でもあるということです。なぜなら、こうしたプロセスで認知される自然と自己との間には、自然を客体化する距離が生まれないからです。もちろんカメラは常に被写体を含め背後にある自然を視覚的イメージとして捉えようとしています。しかし身体表面に加えられる虫の攻撃は、私たちの意識を視覚的イメージではなく、触覚的、聴覚的イメージへと導いていきますので、自然を客体化する距離を維持することが難しいものとなります。このことが何を意味するのかというと、自然を「自己の意識を投影する」ための風景と見なすことが困難な状況がここにはあるということです(註12)。
たとえばパノラマ的視点から捉えられた風景には、人間の意識が投影しやすいので、自然の美しさを人間の愚かさを包含するものとして描くことが可能となります。しかしここには、そのような見方を可能とする主体と客体の関係性がありません。なぜなら、ここでは人間の肉体的弱さを前提とすることで、視覚的イメージを前提とした自然との一体化というロマン主義的な願望が拒まれているからです。
もちろん多くの作家と同様に、大槌さんの作品にもロマン主義的な風景との同一化という願望が確認できます。たとえば蔵王連峰を徒歩で登頂した友人の記録を追体験に拡声器で読み上げながら同じ場を歩いて廻る映像作品、《歩行と状況描写、素朴な絶望、そこにあったのは月面》は(註13)[画像1]、山の麓から月面(山頂)へという惑星的遠近法を用いた作品ですが、ここにはフリードリヒの『海辺の僧侶』(註14)[画像2]を強く想起させるものがあります。
しかし拡声器を持って方向喪失的に歩き廻る姿には、ロマン主義的な自然との同一化を壊す要素があることも事実です。たとえばそこで作家が対峙しているのは自然なのか、あるいは自然についてのテクストなのかという問題です。自然を対象化し認識するために書かれた記述が同時に、自己と環境との一体化の間に介入してきて、モノとコトバを巡る葛藤を生んでいます。そういた意味では、ここには自然と人間を一体化し調和するというロマン主義的な幻想はありません。あるのは緊張と葛藤という関係性といえます。
ここでロマン派的願望が否定されるのは、おそらくロマン主義の中に内包されている人間中心主義的自然観が作家によって否定されているからだと思われますが、いずれにせよ重要なのは、こうした否定が人間の肉体的弱さを前提に行なわれていることです。つまり有限な存在である人間がその弱さを自覚しながら自然環境のなかを移動することで、自然の他者性を知ることが可能となり、そこから新たな表現の可能性を問い直すということが試みられているわけです。ここに大槌さんの人間中心主義的ではない、ポスト・ヒューマニズム的な想像力の可能性があると考えますが、こうした試みこそが環境破壊時代の藝術に求められる役割ではないだろうか。
(註)
-
ハンナ・アーレント『暴力について』(高野フミ訳、山陽社、1973年、P94頁)
-
沈黙する自然の他者性については、クリスファー・マニス「自然と沈黙―思想史のなかのエコクリティシズム」(城戸光世訳)、『緑の文学批評―エコクリティシズム』(松柏社、1998年)を参照。
-
たとえばアラン・コルバンは『風景と人間』(小倉孝誠訳、藤原書店、2002年)の中で「風景というのは距離を前提にします」と述べている。56頁)
-
デイヴィド・C・ミラーは『ダーク・エデン』(黒沢眞里子訳、彩流社、2009年)の中で、John Barrellの「高いところに視点をおかなければならない大きな理由は、そうすることによって風景と観察者の間にスペースがうまれるからであり、それは絵と絵を見るものとの間のスペースと同じ効果を生む」(427頁)という言葉を引用しながら、絵画について語れる距離について考察している。
-
このような風景の逆説性については柄谷行人「風景の発見」、『日本近代文学の起源』(講談社、1980年)を参照。
-
ハルオ・シラネ「四季の文化―二次的自然と都市化」、『水声通信』32号、水声社。2010年。
-
たとえば三品理絵は『草叢の迷宮』(ナカニシヤ出版、2014年)の中で、「「草葉の影」という語が墓の下、墓所、あの世を指すように「草陰」とは、往々にして異空間、さらに死の世界へと通じる場であると考えることができる。」と述べている。
-
大槌秀樹《名もなき神々》(2018年、8分30秒)
-
8. 大槌秀樹《撮影と風景》(2017年、12分5秒)
-
ハロルド・フロム「超越から退化へー伝統的自然観の終焉」(吉田美津訳)、『緑の文学批評―エコクリティシズム』(松柏社、1998年)
-
矢野智司は『動物絵本をめぐる冒険』(勁草書房、2004年)の中で、人間中心主義的な思考法を批判的に捉えることを可能とする擬人法(「逆擬人法」)の可能性を指摘している。
-
たとえばエドワード・アビーは『砂の楽園』(越智美智雄訳、東京書籍、1993年)の中で、「人間の意識の投影としての世界」ではない、世界そのものと直接出会うことを模索している。
-
大槌秀樹≪歩行と状況描写、素朴な絶望、そこにあったのは月面#1・2》(2017年、7分51秒、13分33秒)
-
カスパー・ダーフィット・フリードリヒ『海辺の僧侶』(1808 — 1810年)
(画像 上から1、2)
主な参考文献
-
デイヴィド・C・ミラー『ダーク・エデン』黒沢眞里子訳、彩流社、2009年
-
イーフー・トゥアン『トポフィリアー人間と環境』佐伯治訳、せりか書房、1992年
-
ロバート・ローゼンブラム『近代絵画と北方ロマン主義の伝統―フリードリヒからロスコへー』神林恒道、出川哲朗訳、岩崎美術社、1998年
-
三品理絵『草叢の迷宮』ナカニシヤ出版、2014年
-
B・ノヴァック『自然と文化―アメリカの風景と絵画』黒沢眞里子訳、玉川大学出版部、2000年
-
野田研一『失われるのは、ぼくらのほうだ』水声社。2016年
-
サイモン・シャーマン『風景と記憶』高山宏・栂正行訳、河出書房、2005年
-
ハロルド・フロム他『緑の文学批評―エコクリティシズム』松柏社、1998年
-
下河辺美知子『グローバリゼーションと惑星的想像力』みすず書房、2015年
-
ハンナ・アーレント『暴力について』高野フミ訳、山陽社、1973年
-
アラン・コルバン『風景と人間』小倉孝誠訳、藤原書店、2002年
-
矢野智司『動物絵本をめぐる冒険』勁草書房、2004年
-
伊藤詔子『よみがえるソロー』柏書房、1998年